ラベル 人の心 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 人の心 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2017年6月30日金曜日

相談するのと愚痴るのは違う。というこれも愚痴です。

梅雨時、蒸し暑くて体調管理が難しい季節です。
またブログを放置してました。

最近、ずいぶん長いこと連絡を取っていなかった友達から連絡が来ました。
私自身もこのままフェイドアウト出来るな~。。と思っていて、彼女の連絡先もアドレス帳に載せていなかったので、最初は誰からの連絡か分からなかったくらいで。。

嫌な予感は当たっていて、彼女が旦那さんとの不仲で悩んでいるから、弁護士を知っているかとか、市の法律相談とか何でもいいからどこから手を付けたらいいのかを教えて欲しい、色々相談にのって欲しいというのが最初の話でした。

そう言われたから私は普通に、本当に離婚したいのか?とか、離婚したいなら話の進め方というか、市の法律相談は自治体に予約が必要だから問い合わせてみたら?とか、弁護士は知らないけど、協議を始める前に市の法律相談で概要を聞いて、調停になったら改めて弁護士に相談して依頼するのでもいいんじゃないかとか、もう本当に一般的な回答をした訳です。
そう聞かれれば、そう答えるでしょ。

理由とか経緯は時系列で箇条書きにしてね。とも言いましたが。。

かなりネガティブになっているようだったので、会って話すのは勘弁頂きたいと思っていましたが、彼女は平日休み、私は土日休みで、時間が合わない為に電話で話すとか会って話すのは無理だったのは幸いでした。

それでも彼女は私に平日の彼女の休みの日の昼間に都合をつけろと。
そして電話で話を聞いてくれと。
メールに内容を書くのは、文章が残るから嫌だと。

それは無理だと言うと、メールを後で削除するなら時間のある時に送ってもいいということでした。
共通の友達もいましたが、その友達とも特に連絡を取っている訳ではなかったので、誰に話すでもないし、そもそもメールを人に見せるようなことをする訳ないのに。
そんなに信用出来ないなら、そんな相談されなくてもいいんだけどな。。というのが正直な感想でしたが。。

一応「話が済んだらメールは削除する」と返事をすると、旦那さんとの不仲の理由だけでなく、その他の彼女に降りかかった不幸の数々を、ただ毎日が辛いと言うだけで前向きにどうしたいという内容もなく、ただダラダラと辛い辛いということを書き連ねるばかりの内容でした。
これをうんうんと聞いていたらずっとはけ口にされるだろうなぁ。。と感じました。
私も経験してるから、気持ちは分からない訳じゃないけど、もう少し自分で行動してみようとか、離婚に向かって頑張ろうという意志も感じられませんでした。
心も身体も辛いから、あれも出来ない、これも出来ない、内容は少しずつ話すとか(時系列で箇条書きにしてくれと言ったのは読んでないのか、見なかったことにしているのか)。。
これをOKしたら、私が大変かもな。。と思ったこともあって、話を聞く余裕がある人に聞いてもらった方がいいのでは?と返答しちゃいました。

離婚するのにものすごい負のエネルギーが必要なのは、当然のことなんです。
本当にもう無理だから、絶対に離婚するんだという強い意志がないと、まして子供さんがいたら話を進めていくのは非常に大変なんです。

私は冷たい人なので。。

でもやっぱりこれは相談ではなくて、単に愚痴を聞いて欲しいだけなんだろうと判断しました。
そしてこういう人は大抵の場合、自分が暇な時に口汚く愚痴るだけ、旦那さんの悪口や、自分の境遇を嘆くばかりでそれを打開しようという努力は後回しなのか、元々そんなつもりはないのか、離婚なんて本当にするつもりはないものです。
相談というのはそれなりに相手の話を求めるものだけど、愚痴るのはコミュニケーションではなくて、一方的にぶつけてくる石礫のようなものです。

本来離婚なんてしない方がいいのだけれど、離婚したいから相談にのってくれという名目で愚痴る相手を確保するのはよろしくない仕儀だと思うのね。
まして実際に離婚を経験してる人間に、それを使うのは如何なものかと。
それならまだ、初っ端から愚痴を聞いてと言われる方が腹の置きどころも違う。
まぁ。。諦めてくれたようなので、良かった良かった。

こちとら、こんな季節でもあるし、そこまで絶好調じゃないんだよ。
という、長い長い私の愚痴でございました。

お陰さまで、引き続きご購読頂いております。
ありがとうございます<(_ _)>









2016年11月26日土曜日

人権

まさかの雪に慌てた口のMegです。
結果的には冬タイヤで出勤しましたが。
愛車は車検の為、入院中です。
冬タイヤは代車。

秋口に台風の低気圧に負けて腰を痛めた訳ですが、私は過去のムチ打ちの影響もあってか(いや多分PC過剰)、肩から首、頭が時々激しく凝ります。
この雪の前後と明日も天気が悪いようで、その影響かも知れませんが、顔まで凝ってる感じがして目が開けづらい。。顎周りが重い。。で、行き付けの鍼灸院へ。
スッキリ。

なかなかよろしくないニュースが目立ちますね。
最近多いと思うのが、年配の方々の車の事故。
アクセルとブレーキを間違えたというのは前から多かったけど、取り上げられてなかっただけなのか、本当に増えてるのか。
あまり他人事ではありません。
ここ群馬も完全な車社会。
運が良ければ、私もいずれ運転するべきかどうかを考える年齢になる時が来ます。
先日特集されてたのを聞く限り、ペダルの踏み間違えで済むんだろうか。。と思う死亡事故がありました。
自分の車前方と電柱の間に人が挟まれてるのに、アクセルを踏み続けていたという。。
せめてアクセルから足を離せなかったんだろうか。。パニクっていたから?
その人は圧死されたそうです。まだ若い。
今の私にはまだ想像がつきません。
自分の体がそこまで思うように動かなくなることを。

小さな子供さんが、若い親御さんに殺される、或いは育児放棄で死なせてしまう、そして遺体遺棄。
じゃ何で産んだんだ。。と思う。

無くならないテロ。

大統領に対しての反対デモ。

他にも、他にも。。

それでも、表舞台には出てこなくても、善良な人々はいます。
その表現は適切じゃないか。
善人と悪人がいるのではなく、善悪両方持った人が、どちらかを発揮する場面があるだけ。
悪の部分を宥める力があるだけ。
人から見たら悪でも、本人は善だと信じていたり。
自分の負の感情を責任転嫁していることに気付いていなかったり。

だから、残念ながら人間が存在する限り、諍いは無くなりません。

少し前に、人権についての話を聞く機会がありました。
人を差別するのはよろしくない。普通に考えるなら当たり前。
でも、そう考える自分は本当に誰に対しても差別的なことを思ったことがないか?
「あの人は自分より上、あの人は自分より下」という風に、人を格付けしたことはないか?

私はあります。
人は人、自分は自分だと思いながら、どこかで誰かを見上げたり見下げたりしている自分を感じることがないとは言えません。
人の好き嫌いだってあります。
それが差別。
詰まるところ、人の格付けや好き嫌いから派生している。
それを表に出すから問題になる。
差別の理由は限られた事柄だけじゃない。
じゃあそれを無くせるか?

先日聞いた人権の話は、これは良い、悪いというかなり一方的なものでした。
「こう考えることが必要なんですね」と、人権DVDの登場人物はサラッと言っていました。
解決策は、ないと思う。
本当に平和な世の中というのは、希望的観測だと思う。
人の脳に負の感情を無くす手術でもしない限りは、どだい無理な話です。

人間の一番の敵は人間です。
でも一番の味方であり、理解者となるのもまた人間。

世の中には色々な人がいて、大抵の人は自分の好き勝手を人に押し付けたいんです。
それを受け容れられる人と、受け容れられない人がいて、その好き勝手の内容にもよるところがあります。
その好き勝手が欲や我侭から来るものなのか、愛情に類するものなのか。
受け取る側のことを考えているか、全て否定的に受け取っていないか。

こんな考え方をすると、どこにも救いがないように感じますが、救いならあります。
すぐ近くに。
一番近くにいる救いを大切にすることが、地道な解決策になればいいと思う昨今であります。


いつもご購読ありがとうございます。







2016年9月22日木曜日

私は昔から。

考えてみれば、ちょっと興味が湧くと「えいっ!」ってやっちゃう子供でした。
だからすぐ迷子になるし、親には怒られるし、怪我もしてた。

遊園地のジェットコースターとか、お化け屋敷とか、そんなのから始まった。
お化け屋敷は(お化け屋敷側が)危険と分かったのはこの頃でした。
何故危険か?
私は周りがよく見えないところで驚かされると、無意識にひどく暴力的になるらしいのです。
子供だったから無罪放免で済んだけど、今やったら器物損壊の罪です。
お化け屋敷の種類によっては、過失致傷か傷害の罪に問われる訳です。
ええ、あの当時、お化け屋敷の中の人形か何か(あんまりよく覚えてない)を、ぶん殴ったか蹴り倒したかして壊しました。

今は絶対タブーのスキー場では、一人で勝手にリフトに乗って(乗りたかっただけ)山頂で迷子になって、一人でパニクってるところを父に見つけてもらって散々怒られたり。
もう少し大人になってから、学生時代のバイト先でのスキーツアーに連れていかれて、全くの初心者なので、誰か教えてくれるよって言われたから参加したのに、現地に着いてみれば皆自分が遊ぶのに夢中で誰も教えてくれず、何も知らない私はやっぱり一人でリフトに乗ってしまい、やっぱり「えいっ!」って滑り降りようとして転んでも止まらず、レンタルのスキー板は両方行方不明、両足を捻挫して帰って来たのでした。
よく捻挫で済んだと思いますが。。
その後、やっぱり「えいっ!」ってノリでバレエを始めて、スキー禁止になったこともありますが、スキー場に対しては、今でも非常な抵抗があるのも確かです。

あ、お化け屋敷と、ついでに言うとホラー映画とかも好きじゃないです。

まぁ、そんな感覚は大人になっても変わらない部分があるので、そのままのノリで色んなことをやってるなぁ。。と自分でも思う訳ですが。

もれなくドイツ行きが付いてきた結婚も、散々悩んだ挙句、様々に考えを巡らせて踏み切った離婚も、結果的には海外経験が出来て、いつでも帰っておいでと言ってくれる大事な友達との出会いがあって、あの辛い結婚生活に学んだこともありました。
一連の出来事があったお陰で、本気になればあれだけのことをやってのける行動力がついて、勉強にもなったし、苦いながらも良い経験にはなったと思っています。

お茶だって、最初は敷居が高いと思っていたけれど、やってみれば自分の為になることばかり。
所作や作法、言葉遣い。着物も自分で着るし。
無駄な事なんて一つもありません。

もちろん、バレエも。
人より少しだけ遊ぶのを我慢したり、食事に気を遣ったり、体系を維持するのを当然に過ごしてきた20年は全く無駄じゃなかった。
もう少し色々復活したらレッスンには戻ります。

そして今。

電子書籍なんぞをこれまた「えいっ!」っと出版して、思っていたよりも読んでくれる人達がいて、現代詩賞に試しに応募してみれば、第三次選考を通過させて頂いて。

やってみるもんなんだなぁと思う。
引き下がれない状況を自分で作ってしまえばやらざるを得なくなって、やりたいと思うことをそんな風にやってみるなら結構出来るものみたいです。
その為の努力もするしね。

それで痛い思いや怪我をすることもあるけど、それは必ず自分の経験になる。
悪いことは一つもない。無駄なことも一つもない。
そりゃあ。。私にも。。飛び込み切れないというか、動くに動けないことだってあるけど、立ち止まるのはやれることを思うだけやってみてからにしようと思っています。

反対に、自分には必要ない、自分の為にはならないと思うものは、何であれきちんとした形で完了することにしています。
流行りの言葉で言うなら断捨離とか、自分の中の棚卸とか。

やらずに後悔するよりは、やっちゃった方が後々の自分の為になると思っています。
犯罪行為、迷惑行為以外ならね。

と、何となく思っていたことでした。
。。アンチスマホだからって訳じゃないけど、「ポ〇モン〇o」その他ゲームに時間と労力を使ってる人々を見ると、もっと他のことしようよ。。って思っちゃうんだよね。。
それともポケ〇ン集めると何か賞金でももらえるのかしら?


いつもご購読ありがとうございます。






2016年5月27日金曜日

謝罪を求めない

湿気でしかムンムン出来ないMegです。
蒸し暑いの辛い。
ってか、暑いの苦手。

とにかく毎年夏が来るのが憂鬱です。
暑いのはホントに苦手。
しかも今年はエルニーニョ現象で平年よりも暑くなるらしいし。
まぁ。。平年ってどこら辺を指して言うんだかも謎だが。


今年の夏で戦後71年ですが、今日の夕方、オバマさんが現職のアメリカ大統領として広島を訪問しましたね。
演説はニュースでちょこっとしか見られなかったけど、原爆投下についてよりも、戦争そのものについての話だったようです。

オバマさんが本音のところをどう思ってるかは想像もつかないけど、平和を訴えてるからってだけではアメリカ国内で結構な反対があったのを押して、広島訪問の実現はなかっただろうと思います。

表立って謝罪は出来ない。
ニュースで広島県民の皆さんも言ってましたが、欲しいのは謝罪じゃないというのが印象的でした。
実際に被爆した方々でさえ、謝罪がどうのじゃなくて広島に来てくれただけで感謝している、と。

広島へは行ったことがあるので、原爆ドームや平和記念公園、原爆資料館を拝見しましたが、私は戦争自体を知らず、原爆も知らず、それでも海外へ行けば歴史上でも世界でも唯一、人の上に核兵器を落とされた国という認識で見られて、それから何となく原爆を落とされた国なんだという意識を持つようになりました。
広島にお世話になった方がいらっしゃることもありますが。。

それ以外にも、距離はあるのに何かと関わりがあるというか、若干の縁があるように感じる広島にオバマさんが行ったというのは、私にとっても何となく感慨深く。。

何よりも、謝罪はともかく来てくれただけで感謝という広島の皆さんの言葉に、思わずウルっとしました。

歳取って涙脆くなったな。

71年という歳月は長いのか、短いのか。
謝罪を求めれば憎しみを繰り返すだけだと、ある被爆者の方が仰っていました。
そう思えるほどに時間が経ったということだろうか。

原爆を落とした側の現在のリーダーとして、広島へ行くのはどんな気持ちだろうか。
原爆資料館で、恐らくアメリカ人であろうと思われる観光客が、展示物に涙を流しているのを見ました。

その涙を見ないようにするのは、少しばかりの努力が必要だった。
不思議な気持ちになった。
それまでの私にとっては、まだ歴史の教科書の中の出来事だった。
肌で感じたのは、その時だった。

一つの区切り、なのかも知れない。

オバマさんも広島訪問を発表した後だったとはいえ、沖縄で米軍関係者の不祥事も重なっての来日はどうだったんだろう。
お疲れさまでした。

戦争をなくすのは難しい。
人間だから。
綺麗事で平和を振りかざすのは簡単だよね。
争い合う事自体をなくすのは、本当に難しいというのに。

それはまた、いずれ機会があったら書いてみようと思います。



地味ながらご購読頂いております<(_ _)>
350円。
ありがとうございます。







2016年4月24日日曜日

変化していくということ

世の中には、毎日とか日常とか、同じことが続いていくと感じる人と、著しく次から次へと変化していくのを感じる人とがいるようです。

私は多分、外側から見たら後者。
でも自分の中では前者。

例えば一ヶ所の職場でずっと長い時間を過ごしていても、その中での変化が必ずあります。
私はここ数年間は、これで落ち着くだろうと思うと何かが起こるという状況にあったからか、ずっと変化の中にいるという感覚でいっぱいですが、基準になるところはさほど変わっていなかったりします。
あ、でも何となく変化せざるを得ない状況にされてたような感覚はあるか。。

要は、どこに重きを置くかということに尽きるんだろうけど。

今は自分でどうにかしようと思っても、自分が動き回るだけでは、どうにもならないところにいるのを感じています。

縁。

こればかりは待つしかない。
けど、ただ待つのは結構しんどい。

自分に出来ることをやって、ただじっと待っていれば、待った甲斐があったということになる気がしているので、今はとにかく待つ時だと思っています。

焦ったところでどうにもならない。
不安になっても同じ時間を、我慢してどう気持ちをコントロールするかが今の私の課題なのかも知れない。

まぁ、もうすぐそんなことも言ってられなくなる時が来るだろうけど。

そんな状態の中で、改めて熊本地震もさることながら、東日本震災の被害を受けた地域の今も同時に考えます。

生活の上で、熊本は今が一番辛い時かも知れません。
その後、それぞれの自宅をどうするか等の諸手続きに翻弄されて、そこから新たな生活の場を作っていく。

東北の被災地では、原発の問題が復興を足止めしてしまっていましたが、少しずつは変わってきている。

私の今は、食べる物があって、寝るところも時間を過ごす場所もあって、その意味では何不自由ありません。
だから、同じ状況ではありませんが、この宙ぶらりんな、どこに着地点を見つけられるのかが全く見えずにいる心境だけは、微細ながら分かるような気がしています。

でも、どんな人にも平等に同じように言えることがあります。

人は、変化せずにはいられない。
その変化は、時に悪い変化もあるけれど、そこから良い方向へ変化させようと考えるなら、その通りになります。

大丈夫。
想像すれば、誰もがなりたいそれになる。
ただし、その想像がポジティブならそうなるし、ネガティブならそうなります。
辛い時は我慢せず、でも基本的には「何とかなる」と良い意味で楽観的にいられれば、気分はかなり楽になるはずです。

とか何とか、自分に対して言い聞かせてるだけかもね。
頑張ろう。


思わぬ健闘、地味ながらご購読頂いております<(_ _)>






2016年4月16日土曜日

七つ葉のクローバー

熊本の地震から始まり、九州にある活断層を地震が移動しているようです。

九州方面にいる友達とは連絡が取れたので先ずは一安心でしたが、その後もあれだけの余震が続くと、不安な毎日を過ごしているだろうと心配していますが。。


建物の倒壊、その下に閉じ込められたり埋まってしまった犠牲者の方々、負傷された方々。。土砂崩れやダムの一部決壊、また重要文化財の倒壊や損壊等、大変な被害となっています。
せめてもの救いは東日本大震災の時のような津波がなかったことだけでしょうか。。

被害の大きさは甚大です。

この度の地震で被災された皆さんへ、謹んでお見舞い申し上げます。
一刻も早く余震が収まり、一日も早く心穏やかな元の生活に戻れますようお祈りしております。



先月くらいだったか、鉢植えの小さなクローバーを買いました。




最初はチビチビ生えてた感じのクローバーが、たまに水やってただけで。。








こんなんなるか?!ってくらいに元気にスクスク育ちました。
鉢が小さいし、これ以上大きな鉢には出来ないのでこのままですが、まだまだ大きくなりそうな感じもします。


しかも。。
四つ葉どころじゃなく、もう五つ葉、六つ葉は当たり前にいっぱいあって、







真ん中辺りのちょっと左寄りの辺に、まさかの七つ葉がいます。
他にも幾つか発見していますが、こんなに葉っぱが増えると思っておらず。


原生のというか雑草としてのクローバーは、踏み荒らされたところに四つ葉の発見率が高くなるそうです。

何故かというと、成長段階で三つ葉の表面に外傷が出来て、そこから新たな葉っぱが出てくるからだそうです。
雑草のなかに発見した四つ葉は全部の葉っぱが揃っておらず、一枚だけ小さい葉っぱだったりするのはその為らしい。

四つ葉は三つ葉が傷ついて出来上がります。

痛い思いをするから、人を幸せに出来るとでも言っておくか。。
痛い思いをしたから、人の痛みが分かるというか。。

私は、多分そんなひとを知っています。
そんなひとは大抵、自分の痛みに鈍感です。

自分の痛みにも気付いてください。
あなたも人間なのですから。


七つ葉の意味は「無限の幸福」だそうです。
無限の幸福を、すべての人へ。



まぁ。。




いつからラッキーブログになったかは知らんがな(・∀・)
何だか色々真面目に書いちゃったんで、落としておきます。。何となく。


思わぬ健闘、地味ながらご購読頂いております<(_ _)>







2016年4月2日土曜日

Making of 電子書籍 「デュスノミアの斧」

桜の花がほころぶ季節、処女作として電子書籍を出版してから、三ヶ月が経ちました。

最初はどうなるだろうと非常に不安もありましたが、友人知人含め、思っていたよりもたくさんの方々の目に触れることになり、大変有り難い限りです。

何とな~く知らない内にと言うか、ちょいちょいご購入頂いているようです。
ありがとうございます。

出版から少し時間が経っているのですが、この書籍がどんな経緯で出版に至ったのかについて書いてみようと思います。


読んで頂いた方には何となく伝わっているかも知れませんが、この書籍に収録している詩編は、私の人生では一番底辺にいた頃に書いたものに加筆修正したり、新たに書いた作品です。

自分でも読み返すと思い出される様々な思いがあります。

それは過去であって、その過去が今の私を作っている。

準備を整え努力もしたけど、あの時に一番強かったのは本気で願っていたこと。
今流行っている「引き寄せの法則」があるとするなら、私はそれを体験したんだろうと思っています。

実際に願った通りに叶ったから。

自分が勝手に囚われていた「上辺ばかりの幸せ」というか、「周囲から幸せに見えているだけ」の状態から抜け出した時の解放感は、もう。。!

事前に愚痴交じりに話していた一部の友達以外の周囲からは、「あんなに仲が良かったのに、どうして?!」という反応ばかりの離婚劇でした。

自分の心の外側を取り繕うことなんてたかが知れている。

でも、自分の本当に望むことを、自分の芯に時間をかけて問うた時、どの時間に何度、どんな角度から考えても、離婚以外に気持ちが傾かなかった。

詩集「デュスノミアの斧」は、そんな頃に書いていたものが殆どです。
ギリシャ神話に登場する不法の女神「デュスノミア」は、あの当時の私自身を投影しています。

あの頃の私は、不法(合法ではありますが、結構酷い手段を使っても離婚したかった)の女神よろしく、自分のその時の婚姻に斧を振りかざして粉々に壊しました。
今から思うと、その時の自分がそんな暗い破壊することしか考えていないイメージだったので、その通りのタイトルにしました。


当時、一度は将来を誓い合っても、人間ですから間違いもあって、それが自分の為にならないと本当に感じられるなら、その間違いを正せばいいと感じるようになりました。

仮に私に子供を授かっていたとしても、同じ選択をしていただろうと思えます。


宇宙はどこまで広がっているか、今も膨張している説、宇宙に果てはない説、諸説ありますが、そこから見たら、この地球上の生きとし生ける者の付いた離れたなんて大したことではないような気がしました。

動物は面倒な手続きがないから、好きなようにくっついたり離れたりしている。
人間は一度正式に婚姻すれば、正式に書面で離婚しなければ離れられない。
でもそれは、人間が作り出したものであって、お互いもしくは片方が共に暮らす為の障害になっているなら、それは致し方ない、と思うのです。


ただ、離婚を推奨しているのとは違います。
いずれを選ぶにしても、自分の人生だから、自分でしっかり責任を持って選んで、後悔しないこと。


まぁ。。前から散々記事に書いてるけど、離婚するのは楽じゃないからね。
結婚する前よりも、結婚した後の毎日が楽しくないなら、その結婚に意味はないと、人生の大先輩が仰っていました。
だから、離婚の苦労でさえも厭わないとまで思えるなら、その結婚は確かに間違っていて、離婚することで拓ける人生もあるのかも知れないと、私は思います。


友人知人が、これからも出版するであろう私の詩集を読んでくれるのは、とても有り難いことだと思っています。
でも、もう一つ、こうして何かの検索にヒットしてこのブログに辿り着いた見知らぬ人が、この詩集を読んだ時に、どの詩編にか、ご自身の幸せの為の何かに気付いてもらえたら、それが一番私にとっては嬉しく幸せなことです。

結婚、離婚だけではなくて、仕事や人間関係に悩んだ方からも、共感したというお声を頂きました。
本当に有り難く、心から感謝致します。






今後とも宜しくお願い致します。


2016年3月16日水曜日

高崎少林山達磨寺のこと。

これはね、忌々しきことです。

昨年までは高崎茶道会大茶会の会場として毎年借りてきた少林山ですが、ついに今年からは高崎問屋町のビエント高崎へ変更になりました。

その理由は。。


毎年、お茶会の度に問題になってきた駐車場。
舗装されてない砂利駐なんだけど、いつだったかその駐車場として使われている敷地の一部に家が建ちました。


それからだったかは分かりませんが、お茶会でお客さんが車を停めると、とある女性にそこに停めてくれるなと怒鳴られるということが始まりました。


その女性はご住職の奥様で、俄かに問題になってきている方です。


1月6日の午後から7日の午前中にかけて、毎年夜通しだるま市が開催されます。

子供の頃からだるま市だけでなく、かなり長い道すがらに露店が立ち並び、私にとっては誕生日とも重なる為に少林山兼誕生日のお小遣いをもらい、毎年お正月の後の楽しみとなっていました。

だるま市だけでなく、露店を楽しみにしてくるお客さんも多く、相当に混みました。

。。。昨年までは。

それが今年、あろうことか露店を締め出してしまいました。
あるのは、入り口の市道で販売するだるま市と、群馬県内外のお店が出すテントのお店のみ。
というのは今年だるま市に行った人から聞いた話です。

つまらなかった、と。

露店も楽しみに毎年行くのに、これからずっとあれだったら、もう行かないと言っていました。

達磨を作っている職人さん達にも相応の影響が及んでいるそうで、高崎のだるま市ではもう集客が見込めないので、前橋のだるま市に数を多く持っていくのだそうです。


高崎だるま市の方が盛況だったにも関わらず。

その模様が新聞に載りました。

露店とだるま市の締め出しの理由は、電気を使わせたくないから。


茶道会の話に戻りますが、茶会で少林山を使う時は、相応の料金を支払います。
トイレの掃除代も別途支払います。

土曜日搬入、茶席の設営。
日曜日に茶会。

土曜日の設営の前に、必ず席持ちの社中の皆さん(要は私達)が掃除します。
こう言ってはなんですが、どれだけ掃除してないんだろうというくらい、埃だらけです。
昨年だったか、3月下旬か4月上旬(忘れた。。)のお茶会の際、節分の時に撒いたのであろう豆が、綿埃と一緒に転がっている始末。

それでも、奥様は「掃除はきちんとしているんだから、掃除機は貸さない。」との事でした。
結局、自分達で箒で掃除、まさかこの歳になって、相当本気の雑巾掛けをすることになるとは。。
お陰様で、翌日のお茶会ではしっかり腰痛です。

そして、トイレの掃除代を支払っているにも関わらず、茶席の撤収の際にはトイレをしっかり掃除していけと。
そりゃあ、使った後はそれなりに掃除はするけど、でもそこにお金を払っているのに。。


駐車場を使わせない、電気を使わせない、掃除機も貸さない、でもお金は取る。
確か暖房器具も貸してくれなかったなぁ。。


別の方のお話では、何十年も毎年お札を受けに少林山へ赴いていた方に対して難癖をつけたそうです。
あのきつい口調で。。
その方は、もう二度と行かないと仰っていたそうです。


高崎だるま市にしろ、参拝客に対してにしろ、茶会にしろ、少林山は一体どこへ向かおうとしているのか。。


恐らく、改善されるまでは、高崎茶道会では少林山は使えないようです。
今年は3月27日(日)、そして初めての会場です。


今後の少林山の行方が憂慮されます。
改善されることを切に願います。



只今性懲りもなく絶賛発売中♪
ホントかよ(´・ω・`)





2016年2月13日土曜日

体調不良。

とはいえ、ちょっとマシになってきました。

昨年の秋くらいからあったんだけどねぇ。。
めまいとか、立ちくらみとか。

年末にMRIと血液検査したけど、特に異常なし。
ストレス性だねぇ。。出来れば環境を変えた方が。。云々。

まぁ、大抵不定愁訴の場合に言われそうなことばかりを、並べられて帰ってきただけでございます。


今年に入ってから、目の奥の辺りからおかしな耳鳴りがする。
低い音から急に金属を引っ掻くような高い音に変わる。
高い音になった途端に頭痛が始まる。

めまいで車の運転どころかベッドから起きられなかったり。
食欲なかったから、食べ物がなくても気にならない。

そんな状態になっていました。


もうだいぶ復活。
病院で点滴を受けて、もらった薬を飲んで。。でも頭の中のモヤモヤがどうしてもすっきりしなくて、一か八か鍼灸院に行ってみました。

思いの外効いた。
かなり楽になりました。

周りはいっぱい心配してくれるけど、今の仕事の引継ぎをしなくちゃだからね。
引継ぎさえちゃんとすれば、もう用はない。
あちらにも、こちらにも。

多分そんなもんなんだろう。。

と、思っていると、そうでもないのか。。人によっては。
自分が、どういう位置に居るのかよく分からない。

自分を優先。。動けなかったら動けないからどうにもならない。
会社の為に無理しようなどとは努々思っていない。

ただ、負荷を負うところが違ってしまう。
負うべきところに掛かるなら、心置きなくこのままドロップアウトしてしまおうかとも思ったけど、そうじゃないから引継ぎまでは責任持ってやる。

うまく伝わらないもんだな。
どちらの思いも。
在るのか無いのかさえ、分からない。

額面通りに受け取っておけばいいものを、それでさえ疑うのは。。
やっぱり後遺症が残っているということか。



2015年9月6日日曜日

父の命日、三年

あの時から三年間、気持ちは落ち着いても、空白感は変わらない。

今までは土日のどちらかで、法事もあったから特に気にしてなかったけど、今年は明日、月曜日なのだけれど。。

仕事をしていた方がむしろ、紛れるだろうか。
時計を見るのが辛い、明日だけは。
午後半休してお墓参りに行こうかとも思っていたけど。
今、非常に忙しく、割と大変な状況にある中で、仕事を休んで墓参りに行ったら、多分父は。


。。怒るだろうな。


仕事人間だったし、何せ亡くなる二週間前まで働いてた人だから。

だから今日、一日早いけど、お墓参りに行って来ました。
実家へは敢えて報せなかった。
私が今日、お墓参りに行くことを。

一人で報告したいこともあった。

まだ何かが始まった訳ではないけど、何かが変わるかも知れないような気がしているから。
それが私にとって良いのかそうではないのか、私自身が見極められるように。



昨年もここで命日について書いたけど、本当に全く父を感じたことがない。
父が他界してすぐ、どこで聞きつけたのか、とある新興宗教のチラシが入っていた。

亡くなった人ともう一度会いたくありませんか?と。

人の傷に塩を擦り込むつもりか。
と、思った。

そういう類の物語やドラマは多々あるけれど、ああいうことはない方がいい。
今考えるだけでもそんな非現実的な、そしていずれにせよ、もう一度同じ別れを繰り返さなければいけないことが、目の前にぶら下がっているのが分かっているのに、それでももう一度会いたいと思わない訳ではないけど、その隙に付け込むような輩がいるのが腹立たしかった。

会いたくない訳じゃないけど、それは一過性、他界する前に戻せる訳じゃない。
父が最後に何を言おうとしたのかについては、いずれ分かる時が来るだろうと思っている。







明日は、父の三回目の命日だ。




2015年8月11日火曜日

映画 「インサイド・ヘッド」

観て来ました。

役所さん目当て。。と激しく悩んだ末の、「インサイド・ヘッド」。


「アナ雪」でさえ観ていない私が、どうしていきなりディズニー映画を観に行ったかというと、予告で色々テレビでも流れてるだろうけど、人の脳内を擬人化して描いているからです。

感情が存在する理由、特にカナシミの存在理由について、深くフォーカスされています。
何となくは感じていたものが、今回どうやって擬人化して映像化されているのかに非常に興味を惹かれて観に行ったのでした。

ネタバレしません。
っていうか。。
もう一回、DVDか何かで考えながら、巻き戻してみたりしながらじっくり観たいと思いました。
というほどに、深いし抽象的でもあるし、分かりにくいところもあります。

子供さん連れのご家族で観に来てた人達が多かったけど、あれって子供達はどう観たんだろう。。







カナシミが人にもたらす影響力、精神の成長には絶対不可欠であって、人との共存にも絶対に必要な存在です。

このブログでも禍福は糾える縄の如し。なんかでも書いてきましたが、ヨロコビとカナシミは二人いつも一緒です。

人が大人になっても、ビンボンは形を変えて、いつでも多少なりとも、或いは複数人、私達の中にいる存在で、興味の対象を外れたものから消えていっているのかも知れません。

劇中では、ライリーの一家が引っ越したことからの出来事になっていますが、人の一生の中で、このサイクルが、恐らく大小合わせれば相当な回数で繰り返されているんだろうと思いました。

思い当たる節を見つけて切なくなったり。。
私も家出しようとしたことあるもんなぁ。。
子供の頃、脱走程度の小さいものなら数知れず^^;


ある時、ストンとこの映画の意味が腑に落ちる瞬間があります。

うん、この映画は失敗じゃなかった。
何となく色々がうまくいかないなぁという人は特に、お勧めしたい一作です。




2015年5月30日土曜日

情けは人の為ならず

予定外に天気のいい週末、うっかり掃除洗濯してしまったMegでございます。


先週末にはあんなに掃除したのに、先日の黄砂がまだ気になってしょうがなくて、先週は天気が悪くて出来なかったシーツやら布団カバーやらの洗濯に余念がございません。

肌掛けなんかもうっかり洗濯して、こんな日差しの中にいつまでも干しておいたもんなら、多分暑くて色気も何にもないのに今夜は眠れない(ノ∀\*)とかいう、結構嫌な感じになりそうだ。。と思いながら、乾いたのを確認して早々に取り込んだのでした。


車も洗わなきゃ。。何の罪もない大勢の虫の命を奪った跡が、フロントガラスにいっぱいなのでございます。


さて。。



時々思うことがあります。


困っている人には基本声を掛ける。
また思いの外、何故か困ってるっぽい人に遭遇する率が高いのであります。


もう数ヶ月前、恐らく認知症のお婆ちゃんを拾って、送り届けるということがありました。
この出来事について書こうと思ってないので詳細は割愛しますが、平たく言えば善い事をした訳です。


アタシってなんていい奴。
善い事したから、いいことがあるに違いない。

そりゃ考えました。
人間だもの。


でも、そんな見返りはない。
宗教的な言い方を借りるなら、功徳とか言うのかも知れない。
功徳なんてない。

仏教だけじゃなくて、その他全世界の宗教にも、全世界の人々にも、善い行いをしたからいいことがあるなんて一切ない。
宗教を信じたから、いいことがあるというのは、そこに救いを求めるから。
それで済ませておかないと、結構な痛い目に遭うと思うんだな。

私は神様はいると思っています。
お化けも幽霊もいるかも知れないと思っています。

多分、神様もお化けも幽霊も、人にいいことをもたらしてはくれない。
一見悪いことのように思える、試練は課したとしても。

実家が仏教のとある宗派だから、私もそうだと思ってます。
その宗派はいいことをしたから功徳があるなんて言いません。
むしろ、寺を造ったり、僧に供養しても、功徳はないんだそうです。
よくもまぁ、檀家が居なくなりかねないことを言ったもんだ。


色んな人がこの世界を作っている以上、理不尽だらけであることを本当に理解するのは難しい。

正直で真面目で清く正しい人が幸せになれるのかと問われれば、そうかも知れないけど、必ずしもYesじゃない。

正直で真面目で清く正しく、まだ世の中の垢も汚れも知らない小さな子供が、幼くして命を落とすことがあるのをどう説明するか。

正直で真面目に清く正しく、判を押したように生きて来ても、犯罪や事故や災害に巻き込まれて苦しんだり、或いは長らく病気に苦しんだ末に、この世を去る人達をどう説明するのか。

世の中神も仏もいないのか。。と思ったとしても、何も不思議なことはない。


せっせと掃除に励んでいたところに、邪魔しにやって来たとある新興宗教の勧誘者はきっと、苦しい宗教観のこじつけを押し付けようとするんだろう。
彼らは、体も精神も弱っている人の、その部分に付け込むんだろう。

その底にあるのは、人を助けて勧誘に成功すれば、自分に吉事が舞い込むという腐った計算です。
或いは、自分が信じるそれを人にも信じさせることで、自分が間違っていないという安心を得る為のポーズです。

何故なら新興宗教というのは、基本的に欲が絡んでいるから。
欲が無いなら、功徳だの利益だの欲しがらない。
そしてそれを本人も自覚していないのが、とにかく始末が悪い。
本気でそれが人の為だと考えて、口走る。
またそれを、信者の気持ちがいいような言い方をするんだよね。


情けは人の為ならず。

人に掛ける情けは、本当にその人の為ではなく、廻り廻って自分に巡ってくる吉事を望むという意味の言葉です。
人間とはそういうもの、というのを昔の人は戒めたのだと思われます。


何の見返りも求めずに、いいことをただ気分よく、自己完結に終わらせる人でありたいと思った今日なのでした。





2015年5月8日金曜日

1.0以下の人々

ちょっと前にチラッと読んだ書籍の中に、こんな事が書かれていました。

「0.9の人とは付き合わない方がいい」
視力じゃないよ。視力だったら0.1にも満たない残念な人がここにも。。orz

また随分極端な言い草だなぁと思いながら読んだけど、要するに下記のような公式に当てはめたいらしい。

0.9×0.9=0.81
1.1×1.1=1.21

上記は2乗してるけれど。。
これが3乗4乗と増えれば増えるだけその差が開いてくる。

0.9が100乗で0.00002656139
1.1が100乗で13780.6123398

ここまで来ると、その差はかなりのものになる。
ちなみに1.0は何度かけても変化はないから、現状維持ってことらしい。

どういうことかというと、

物の考え方や言動その他、総合的に基本0.9(或いはそれ以下)の人は、そのままにしておくと得るものどころか減っていく一方だということ。

1.1以上の人は増えていく一方である、と。


でも、0.9以下と1.0、或いは1.1以上の人の区別がつきにくい。
見た目大して変わらないからねぇ。。と思ったけど。


何となく、思い当たる節はあります。

なんだかモチベーションとかテンションが上がらなかったり、やる気が出なかったり。
自分自身に感じるのはそんな時かな。


他の人々に感じることもある。
やるやらないは人の好き好きだけど、やたらネガティブで向上心というものはないのか。。と感じる人も正直たまにいる。

あまりに甚だしくて、こちらが疲れるようなら付き合わなければいいだけのことだけど、他人事ながら。。そんなんでその先の人生大丈夫かよ(・・;)と、誠に大きなお世話ながら心配になってしまう。


何て言うかな、こういう人って自分から何かしようとか、何とかしようっていうのがないように見えるんだよね。
私も自分が色々やってきたのは、必要に迫られてのことだから人の事は言えないけど、少なくとも自らやりたくて続けていることくらいはある。

表現がものすごく悪いけど、良くも悪くも私は人を当てにし過ぎない。

人によっては、何でもかんでも誰かに頼り過ぎる人もいる。
自分がやりたいことを、人に膳立てさせようとしてみたり。

人が好きでやっているものを、止めさせようとでもしてんのか?!ってことを、言ってみたり。
「そんなのやらなくてもいいんじゃん?」って、エラく歪んだ自己主張を押し付けられることもある。

それが我慢ならない。←大体押し付けられる側なもんで。

前者はまだしも、後者は0.9どころか0だろ。
付き合い止めて久しい。


誰しも事が何であろうと、やりたいことは既にやっている。
やらなかったことはやりたくなかったことです。

嫌々ながらやってるその仕事だって、やりたかったからやっている。
やりたくないけど他になかったから、というのは通用しない。
仮にコネだろうが何だろうが、「この仕事をしよう」って始めたのは自分自身なんだから。

「これがやりたい」って言っても、何だかんだと理由を付けて実現していないことは、やっぱりやりたくなかったことです。

私にも覚えがある。
例えば、最近旅行行ってないな、また行きたいなって思っても、実際行ってない。
本当に行きたければ、行きたいってわざわざ言葉に出さなくても、既に行ってるんです。


だから、「あれやりたい」「これやりたい」って言いながら、「でも~だから出来ない」って自問自答する人に、自分自身に、私は時々イラッとする。
結局やらないことなら口に出してわざわざ言わなくても良くね?!って思ってしまう。
そして同じように口走る自分も恥じている。


そういうことが0.9以下だと思う。
人間24時間365日、いつもやる気満々でテンション高くてモチベーションの塊ではいられないけど、時に0.9以下になっても、すぐに1.1以上に戻ればいいと思っている。

詰まるところ、中庸、バランス感覚が大事なんだろう。


ただ。。0.9以下に浸りっぱなしという人もいる。
常に0.9以下の人とは関わらないというのも、確かに一つの手と言えなくもないか。。
影響される人はされるだろうし、仮に影響されなくても、だんだんめんどくさくなって付き合い自体を止めるだろうな。
いや、実際いるんだよ。
顔を合わせれば、不平不満以外にネタはないのか!!って知り合いが。
そんなこんなだったら、フェイドアウトしてもいいと思っている。
酷いんだよ。。アタシ。


ストイックになり過ぎないようにしようと思う一方で、抜くところは抜いてもいいんじゃん?と思う昨今であります。
100%やろうとせずに、60%くらいで御の字とする。
結局やらなきゃいけない局面ではやらざるを得ないし。
でも何か一つでも自分でやりたい何かを見つけて始めたら、それだけでも充実すると思うんだけどなぁ。
まぁ、個人の自由だわな。。

私には「まぐろ気質」だった父の遺伝子が、脈々と受け継がれているようであります。
ユルく行こう。。自分にも他人にも。。




=本日の食い物自慢=

前から気になってたステーキ丼。
Viva!! Japanese steak(^_-)-☆

カプチーノの画像はフォ(ry

2015年3月6日金曜日

本当にそれでいいのか?

今日もだったけど、明日も若干予定が立て込んでるんで、そっちは明日か明後日にでも書くとして、今夜は自分のガス抜き記事書きます。


標題は、何かを選び取ろうとする時に何度も自分の中で繰り返すこと。
選び取るって言ってる中には、自分で選べることも、選べないことも含む。

要は自分以外の人から「こうだ」と言われれば、それが自分にとって都合が良かろうが悪かろうが受け入れるしかない時ってあるでしょ。
それも含めで選び取るんです。

完全に選び取るまで何度も繰り返す。
本当にそれでいいのか?
本当にこれでいいのか?

よしっ、それでいい。これでいい。

本当にそう感じるまで、無意識に繰り返してます。
歯を磨いてる時も
歩いてる時も
仕事してても
トイレに入ってようが
風呂入ってようが

ずっと繰り返すんです。

そして腹が決まってフラッと神仏の前に行って手を合わせる時には

私はこうする。

って言う。
それで自分の気が済むからいいんです。

神様には。。とりあえず会ったことがないから、いるのかいないのかは知らない。
ただ因果応報を感じることはある。

どんなこともやり過ぎなければ、悪いことじゃなければ、何やったっていいと思ってる。
多少の欲を追い掛けたっていいと思う。
人間だもの。イヤイヤ。そうじゃなく。


でもさ、欲の皮ばっかり突っ張らかって生きてるようじゃしょうがない。
現世利益?ある訳ないだろ、そんなもの。
お願い、お願いばっかりじゃ、神様だって忙しくってしょうがない。


手を合わせる時に、自分の決めたことがスッと腹に落ちたらそれでいいんだなって思うんです。
落ちなかったら何かがまだ足りない。
何かが違う。
それを感じ取りに行ってるようなものだから。

だから反省も後悔もしない。
責任だったら最初に持っている。



前例があるから、誰かがそう言ったから、そういう何かの所為にしようとする企みがある内は、うまくいかなかったら後悔したり、自分で選んだことじゃないって逃げてみたりするんだろう。

それを止める。
ただ決める。


その為に問うんだよ。


本当にそれでいいのか?
ってね。







2015年1月31日土曜日

ひとつ、またひとつ。

それはいずれ必ず訪れる。


壊れてしまう。

止めようがあるのに。
防ぎようがあるのに。


先走るばかりの感情が、その全ての思考を止めてしまう。
方向は一つだけじゃないのに。


あの日、それを間近に感じ取った空気を纏った。
向こう側へ渡ることは許されず、同じ間違いを繰り返すまいと手元に残した痕が、今も自分を戒める。


長い時間に亘って息をしていればいいような風潮がどこかにある。
何かの役割を担ってここにいることを知っているひとは幸いだ。
その役割が何なのかまでは知らなかったとしても。

いずれにしても抗えないなら、従うのではなく過ぎていく時間を追う。
自分にしか出来ない役割を演じながら。


筆頭となって
道化として
何も考えずに
私利私欲の為に
どこまでも他の為に
保身の為に
犠牲にしてでも
したたかに
しなやかに



それはいずれ必ず訪れる。



生まれ落ちたばかりで
闘病の果てに
事故で
災害で大勢の人と一緒に
銃弾の雨の中で
見知らぬ異国で
思いもよらずに
想定内で
絶望の中で人知れず
頑丈な孤独に苛まれながら


今日がどこかで止まるその感覚の破片を、今も手元に残している。
それを見せる必要があるなら、見せて何かが多少なりとも変わるなら、いくらでも見せてやる。
絶望の破片。


人はどれだけどこまで堕ちても、その気になれば這い上がる強さも持っている。
その先に見える何かはそのひとだけのものだ。


どれがいい訳でもなく、どれを選べる訳でもなく。
ただ選べることがあるとすれば、そこに辿り着くまでの過程の中でのみ。


何を選ぶかは自分次第だ。











それはいずれ必ず訪れる。







2015年1月3日土曜日

Unknown

そのままで居続けられないことは、既に知っている。

試せるのは単なる幸運で、或いは裏を疑っても、いつも行き当たりばったりの出来事しか起こらない。


事実は小説よりも奇なり。
そんなことの連続で成り立っている。


分かっているのは、起こったことを分けないこと。

善、悪。
損、得。
優、劣。
愛、憎。


分けてしまえば、つまらない。
比べるから、つまらない。

起こっていることと、思っていることとは、違う。


だから、感情を依怙贔屓しない。
怒りや悲しみが、喜びや快楽よりも偉い訳ではない。


少しだけコントロールするなら、その分生きやすい日常にはなるかも知れない。
それともいつか誰かに助けてもらえるまで、もっと泣いてみますか。



誰かが残したように見える痕も、自分の心がつけた罅です。
現を閉ざして語る夢に、自らが課す評価の結果です。



ありのままの本当の自分?
本当の自分をどれくらい知っているのですか?
自分にすら分からないことを、誰かに要求するのは酷に過ぎる。



体の外側にあるものを、体の内側で判断しない。
誰もが羨む体裁だとしても、幸せかどうかとは関わりがない。



ないものをばかり強請るなら、今ここにあるもののことはいつ考えますか?
長い目でばかり見過ぎていると、足元が見えずに転ぶ日もある。



起こったことの原因を探すのが目的なら、ずっと探していればいい。
起こったことを受け入れるのが目的なら、何が出来るか考えればいい。



願う時は、叶った時の覚悟も一緒にしておくこと。



求める分の何かを手放さなければ、その何かが入る余地がない。
与えるだけでは消耗するから、求めることを悪いことと決めないこと。



どんな選び方をしようと、たとえそれが無作為でも、行先は等しく与えられる。
それがどこであろうと。


世の中の全ては一度きりのもので出来ていることに、大抵の人は気付いていない。




ずっとそのままで居続けられないことは、既に知っている。

試せるのは単なる幸運で、或いは裏を疑っても、いつも行き当たりばったりの出来事しか起こらない。






冬来たりなば、春遠からじ。
全てが、そんなことの連続で成り立っている。




2014年12月27日土曜日

恋愛観

目下のところ、そびえ立つ程に大きな課題となっているような気がする標題であります。


さしたる目立った特徴もなく、ホメラレモセズ、クニモサレズ。
それでも世の中には男と女しか存在しないのであります。
独りで生きていくなんて、大きなことは言えない。
そう言い切れる程の自信がない。


今年の締めの前に、ちょっと触ってみたくなったこのテーマ。



今年の前半は、私もまだ恋愛らしきものをしていました。

らしきもの。
私にとっては、という意味でしかなかった。
相手にとっては全く別の物だった。


相手にとって、私はネギ背負ったカモだった。
そこまで考えたくはなかった。
でも最後に見た彼の姿は、勧誘に失敗した人のそれだった。

人の気持ちを利用したという認識はないんだろう。
悪気が無かったら何をしても良い訳ではないことや、それが相手にどれだけの影を落とすのかについては、自分達の目先の欲が先に立って、まるで気が付く様子はないようだったから、多分この先も同じことを繰り返していくんだろう。

それで自分の願望が叶って幸せになれると謳いながら。



あれから数ヶ月経った今になって、それまでの人生からしたら全然大した事のないその出来事が地味に効いているような気がした。

信頼出来ないんだよね。
誰のことも。
皆がそんな人に思えてしまう。
どうしても疑ってしまう。


そんな状況でどうにかなることもなく。
単に入り口付近で戸惑ったり躊躇ったりしている内に、気付けば扉は閉まっていた。
叩いてみたけど、開かなかった。
そもそも開いていたのかどうかも怪しいところではあるけれど。


確認してたんだよ。
もう若い頃のようにとりあえず付き合ってみる訳にはいかない。
自分だけじゃない、相手があることだから。

もし、自分に誰か他の出会いがあって揺れ動く程度のものだったら、それじゃいけない。
それなりに先のことも考えなきゃいけない年齢にも来ているし。
だから、それを確認してたんだよ。

そういう嫌な思いや辛い思いなら、たらふく知っている。
それを人にさせたいと思う程には、私もまだ人間が腐ってはいない。



随分前に、何かの記事で書いたことがあるかも知れないけど。

アンデルセンの有名な童話「人魚姫」。


どこぞのネズミーがハッピーエンドにしちゃったアレです。



アンデルセンはあの童話を通して失恋を描きました。
美人か不美人かだとか、その為人には関わりなく、失恋する時はするもの。
それを描いた話が「人魚姫」だと言われています。
人魚姫は可愛くて性格もいいという設定になっている。


嵐の夜に海で助けたある男性を好きになり、声と引き換えに足を手に入れて陸へ上がり、その男性を見つけてその恋を成就させようと頑張ります。
でもその男性は王子であって既に相手がいて、人魚姫は王子を殺すことでしか自分を救う道がなくなります。
王子を殺せない人魚姫は海の泡となり、人間のように天へ召されることもない。


そういうことだってある、というのがアンデルセンの表現したかったことであり、実在している現象でもある。

どんなに一途に献身的に相手を思って身を削ったとしても、それは自分がやりたかったこと。
人魚姫が王子を殺していたら、それは見返りを求めた打算になってしまう。
殺せていたら苦しむこともなく、海の泡になることもなかったろうけど。

人魚姫はただやりたいことをやりたいようにやった。
だから後悔することもなく自ら海へ身を投じた、というアンデルセンの言いたいことはここなんだと思っています。


そうでなきゃ、恋愛なんて何が楽しい。
うまくいけばそりゃ嬉しいだろうけど、うまくいこうがいかなかろうが、持ち合わせる全ての感情を引っ張り出されて苦しむように出来ている。
そうしてまた人間の脳は進化していく。


人の脳には忘却という機能が備わっていて、それが精神衛生を保っているんです。
起こった出来事がずっと「ついさっき起こった」ことのように感じていたら、人は精神を保てない。
仮にすぐ近くにいたとしても、大丈夫。
時間が経てばちゃんと忘れるから。


まだ微妙な距離だけど、そう遠くなく別件の事情で顔を合わせることすらなくなる。
気付けば思い出すことさえ、なくなるだろうか。



これも前に書いてると思うけど、人魚姫にはあまり知られていないラストがあります。
上述のあらすじは誰もが知ってる有名処。
その後があるんです。


身を削り、ただ一途に王子の元へ走って命を落とすことになった人魚姫を、神様は不憫に思い、まだ未熟な人間の魂が修行して年限が明ければ天へ召されるそこへ参加するよう計らいました。
300年間、子供達を見守り続けるというその修行の年限は、いい子を見つければ1年間短縮され、悪い子を見つければ1日延長というものでした。

そこに参加するまでが、童話「人魚姫」です。
いい子にしてないと、人魚姫は天国へ行けないんだよ、という、そこは童話なので。


失恋しても、別の形で再び機会は与えられるんです。
辛くても切ながっても、ずっとその中に居続けたらいけない。

その中にいるのはちょっとだけ気分がいいかも知れないけど、浸り続けていたら次の出会いがあっても気付かずに通り過ぎてしまうかも知れない。


だから、私は友達にも言います。
ずっとその中にいるな、と。






2014年12月14日日曜日

この寒空の下、世間はクリスマスで溢れかえっているこの時期に、何が悲しくて梅なんだと思うかも知れませんが。


まぁ、いつも通りの感じで聞いてやってください。



大袈裟に人生を持ち出さなくても、大体毎年同じようなことが繰り返されています。
直線を歩いているつもりが、円を描いて歩いている。

その途中にあることは大体毎年あることのような。


不思議なことに、それでも世界はどんどん変わっていきます。
人もまた然り。
何かだけは未来永劫ずっと変わらないなどというのはあり得ない。



私のあまり好きじゃない言葉の中に、「登り坂、下り坂、まさか」というのがあります。
結婚式や卒業式なんかの祝辞を述べる訳知り顔のオッサンが言う、あれです。

何で好きじゃないかって、それまでの人生の機微を教えるべくは親であって、身を以て学んでいくかどうかは本人次第だから。
祝辞は前途を祝せばいい。
ただ心から言祝げばいい。
そういう席で殆ど他人の主賓が無責任に諌める必要はない。



「まさか」。


どれくらい「まさか」と向き合ってきたか。
「まさか」というのは、いきなりやってくる。


いきなりやってくるから、鉢合わせてしまう。
いきなり、正面切ってやってくるからね。


そういう「まさか」も大小はあるんだろうけど、乗り越えるのか、やり過ごすのか、避けるのか、跳ね飛ばすのか、人によっても時々によっても違う。


問題なのは、それに対して言い訳をしたり責任転嫁してみたりすること。
認めなかったらその人は何一つ変われない。


「まさか」の時点ではただ起こっただけ。
起こったそれに何だかんだと評価をつけるから、自分の心の中は勝手にややこしくなっていく。
傷つくというなら、私も含めて勝手に傷ついている。
誰かに傷つけられたのでも、起こった出来事に傷つけられた訳でもない。
自分だけが自分を傷つける。


分かってても難しいけどね。


傷ついて、そんな気分になってる時は目一杯浸って酔って、気が済んだらどうせコロッと忘れて懲りもせずにやってくんだから、それはそれで楽しんじゃったらいいのかも知れない。



そんな中で。



まだ真冬の真っ只中にいる。
来そうに感じた春は偽物だったし、手を伸ばそうとしたら叩かれちゃうし。


何で梅かって、ここで出てくる。


「まさか」ならたくさん乗り切ってきた。
何度となく寒中に花を咲かせてもきた。


まだ出来ていない準備もあるだろう。
そこから先にもまだ色んなことが起こるだろう。


梅は真冬の間も花を咲かせる準備をしている。
枝ばかりのその間も梅は梅。


そうして毎年寒い冬を越えて一番最初に梅は咲く。






梅一輪 一輪ほどの 暖かさ   服部嵐雪




咲き誇り、花の香りがして、必ず実を結ぶ。
結果がどうあっても、それと向き合って、受け止めて、そうだと言って引き受ける。
梅の花のようにただ生きて、何度でも花を咲かせて、実を結んでみせる。







2014年12月7日日曜日

どれだけ言葉を尽くしても

気忙しい師走が始まった。


どの店からもクリスマスソングが流れ、クリスマスの飾りと共に松飾が並んで陳列される日本ならではの景色が今年も始まった。
日本はこういうところが平和で巧いところなんだよなぁ。。と思う。

宗教観が違っても、楽しいところは率先して取り入れる。
決して悪いことではないと思う。


バルセロナ旅行の記事は来週に譲るとして、その前に。。



誰もが色々話すけど、その内容と伝わっていることが全く違っている場合がある。


どんなにうまくいっているのか話していてもそこに無理があると、話の聞き手側にはその人が無理をしていることだけが伝わってしまうというような時がある。


例えば。。


最近、とあるお店の経営者と飲みに行った時の話。


私よりも十は歳が上のその人は、若い頃からずっと経営者になりたいという夢を持って、その為に随分頑張ってこられたというお話を伺いました。

確かに頑張ってその夢を叶えて、実際にお店の経営をしている。
それは分かる。

でもどこかに無理を感じたのも確かで。


高級車に乗って、見るからに素材もセンスもいい服を着て。。
似合ってない訳じゃない。
でも、どこかに無理がある。



その人の持っている性質と空気感がそぐわない。
失礼ながら、そんなことを感じていました。



難しいもんだな。
じゃあどうしたら話の内容はちゃんと伝わるんだろうかね。


全く伝わらない訳でもないとは思う。
日本語はちゃんと理解してるつもりだし。


話の内容がどうこうよりも、言ってることと自分の基本が合っていないとそんなふうに感じるように思う。


自分の根幹にあるものと違う話をするのは辛い。
それでも人前ではその必要がある場合の方が多い。
そしてそれが時に、人に伝わってしまう。



無理のある明るさは空々しい。

ここしばらくの自分が、少しばかりそんな感じでテンションも上がらない。
無理があることに気付いて欲しいと思わないでもないけど、隠すのだけは相当に上手くなっているらしく、誰もそんなことには気付かない。

そりゃあ。。言わなきゃ気付かないよなぁ。。





2014年11月15日土曜日

他人を知る。

物書きさんになりたかったんです。


小説とかエッセイとか詞でも記者さんが書くような記事でも、何でもいいから物書きさんになりたかった。

色々勉強して本も色々たくさん読んだ。
でも私くらいに本を読んで、文章が書ける人なんて世の中ゴマンといて、しかも作家を生業にしている人達は書いてないと死んじゃうくらいに、良い悪いはおいてものすごい量の文章を書いてます。

作家として始まる最初というのはそういうものらしい。
正直言って私にはその量が書けないから、作家にはなり得ない。

だから週末になると(たまに平日も)こうやってブログに書きなぐる。
頭の中が言葉でいっぱいになってくると、ガス抜きしてやらないとキツイ時もあるんですわ。



それに思ったのね。
これは全部私の頭の中にしかないことだけど、色んなことがあって、色んな目に遭って、色んな人に会って色んな思いをして、本やネットなんかから得た情報も加味して少しずつ固まってきたものが、何となく世の中のありのままに近付いてきたような気がして―もちろん実際どうかは分からないけど―、自分の頭の中だけでぐるぐる考えるよりも、一部の少数の人達だけでもいいから、それが誰かの何かの役に立ったり、ちょっとでも気持ちが楽になったり軽くなったりしたらいい、そんなことを思ってます。

その逆に、気分を害すなら読み捨てたらいいだけだから。



多分、私のこの人生のテーマは「本当の他人を知る」ことだと感じています。
「ありのままの他人」という方がしっくりするかな。


良くも悪くも他人を思い知る人生。
多分ね。



子供の頃はある時期、そこそこ長い時間に渡って、今考えても子供って残酷だなと、割と他人事のように思う程度の壮絶ないじめに遭っていました。


私にも悪いところはあっただろうと思う。
でも、そこまでされる筋合いはない。
前にもこの記事に書いたな。
相当エグイことされたよ。
ここには書かないけどね。

それこそ、命を落とさなくて良かったと思うくらいに。
あの頃のいじめの対象は誰でも良かったんだよね。

誰かをいじめることでしか結束出来ない子供達の恐ろしい処世術とでもいうか。
陰で「本当はこんなことしたくないけど、ごめん。」って言われたことが何度かある。



いやいや、いじめのことを書こうと思ったんじゃないんだった。


もう少し成長して、社会に出て、実際に世間を知ることになる。

営業やってた時に、突然塩を投げ付けられたり。

とある年の秋口には、夏場は金魚でも飼ってたであろう小さなプラスチックの水槽が玄関に置いてあって、もうとっくに金魚は死んでしまって水だけが緑色に濁って放置されてた家に飛び込みで入ってしまった日があった。

その家のご主人は酔っていたのかも知れない。
腹の虫の居所が悪かったのかも知れない。

飛び込みで呼び鈴を押して、玄関のドアを開けた私はその緑色に濁って腐った水を頭から浴びていた。



ものすごいセクハラに遭ったことも、ストーカーまがいのことをされたこともあった。



だから何ってこともないんだよ。
もう起こったことはしょうがない。
むしろそんな目に遭おうと思ってもなかなか遭えないでしょ(笑)



スキルを上げていって、外資系で働くところまできた。
今は外資じゃないけど。


結婚して云々。。は前に書いた通りで、前の閉鎖した方のブログに書いたのか。。
いい年して稚拙な暴言、それに度重なる浮気。。私の訳ない。
当時の相手がね。

結婚するずっと前から、結婚相手に自分以外にも付き合ってる人がいるのを知っても、結婚生活って続けていける?
私には出来なかったんだよ。
他人の恋路があんなに気色悪く感じたのは初めてだった。



そして父がこの世を去り。
血の繋がりのある親戚でさえ結構危険なことを知り。



あんなことも経て。。これはそんなに大したことじゃないけど。
それも若干のライフイベントだし。



悪いことばかりの人生だとは思ってない。
得るものがたくさんあったから、一つも無駄なことはなかったし。

ドイツくんだりまで行って、あれだけのことがあって、でも友達も出来て、それで救われたのも確かで。


自分にとっての一番の味方であって理解者であるのは、人間。
でも一番危ないのもまた人間です。


人は勝手に色んなことを考える。
人の数だけ考え方があって、その理屈も屁理屈も様々で、そうやって皆が皆、精神の均衡を保ちながら毎日を過ごしているんです。

だから勝手に考えさせておけばいい。
そんなの一つ一つ止めさせることは出来ないし、人生そんなに長くない。

そうかと思えば、家族や友達や親しい人に救われたり、思い掛けない他人に救われて心が動くことがあったり、捨てたもんじゃないなと思ったり、こうやって気持ちが温かくなったらまだ大丈夫だと思ったり。




世界に目をやると、宗教的な理由や経済的な理由、その他様々に苦しい人の方が多い。
その日暮らしに今日の自分の口を糊するのがやっとで、明日のご飯がどうなるのか分からない人がたくさんいて、「サブヒューマン」、人間以下と言われて人権もへったくれもない扱いをされている人がたくさんいて、宗教的にけしからぬ事をしてしまえば、そこには名誉殺人という大義名分で殺されてしまう人達がいて、殺さざるを得なくなった人達がいる。

警察?当局?


動く訳ない。



昔から、「上見て励め、下見て暮らせ」という。
私はこの言葉が嫌いだ。

上も下もあるもんかと思っていた。
今だって思う。


でも、綺麗事を言っていられない。
そんな現実もあるだろう。
考えたり悩んだり出来る事自体が幸せの証拠だとも言えてしまう。


何が「上」で、何が「下」なのか。
社会的な立場? 富裕層が「上」? 宗教的に上位だから?
有名だったら「上」?
経済大国なら「上」?
金持ってなかったら「下」なのか。
名もない一般人だから「下」?
宗教の中で下位だから?
発展途上国が「下」?


知ってる?
人はその生涯を終える時。。死んで逝く時にはさ。


何も持って逝けないんだよ。
持っていけるのは心だけ。精神だけ。
何も持たずに生まれてきたんだから、死ぬ時だって何も持たずに死んでいくんだよ。




物理的なものは生活出来ればもうそれで充分。
どんな目に遭ったとしても、腐らずに前を向く。
その時に必要なポイントだけを抑えたら、それ以外のことは置いて行く。

悲しかったら悲しんだらいい。
切なかったら切ながればいい。
無理に明るくなろうとしなくていい。
底を打ったら上がってくるしかないんだから。

いつも健気で一生懸命やってる人に、他人は本音も言えない。
いつもいい人で人の悪口も一切言わずに、ニコニコ笑顔で誰にでも判を押したように接している人の前では、他人の気持ちは落ち着かない。


人間なんだから。



自分も。
他人も。