2015年5月30日土曜日

情けは人の為ならず

予定外に天気のいい週末、うっかり掃除洗濯してしまったMegでございます。


先週末にはあんなに掃除したのに、先日の黄砂がまだ気になってしょうがなくて、先週は天気が悪くて出来なかったシーツやら布団カバーやらの洗濯に余念がございません。

肌掛けなんかもうっかり洗濯して、こんな日差しの中にいつまでも干しておいたもんなら、多分暑くて色気も何にもないのに今夜は眠れない(ノ∀\*)とかいう、結構嫌な感じになりそうだ。。と思いながら、乾いたのを確認して早々に取り込んだのでした。


車も洗わなきゃ。。何の罪もない大勢の虫の命を奪った跡が、フロントガラスにいっぱいなのでございます。


さて。。



時々思うことがあります。


困っている人には基本声を掛ける。
また思いの外、何故か困ってるっぽい人に遭遇する率が高いのであります。


もう数ヶ月前、恐らく認知症のお婆ちゃんを拾って、送り届けるということがありました。
この出来事について書こうと思ってないので詳細は割愛しますが、平たく言えば善い事をした訳です。


アタシってなんていい奴。
善い事したから、いいことがあるに違いない。

そりゃ考えました。
人間だもの。


でも、そんな見返りはない。
宗教的な言い方を借りるなら、功徳とか言うのかも知れない。
功徳なんてない。

仏教だけじゃなくて、その他全世界の宗教にも、全世界の人々にも、善い行いをしたからいいことがあるなんて一切ない。
宗教を信じたから、いいことがあるというのは、そこに救いを求めるから。
それで済ませておかないと、結構な痛い目に遭うと思うんだな。

私は神様はいると思っています。
お化けも幽霊もいるかも知れないと思っています。

多分、神様もお化けも幽霊も、人にいいことをもたらしてはくれない。
一見悪いことのように思える、試練は課したとしても。

実家が仏教のとある宗派だから、私もそうだと思ってます。
その宗派はいいことをしたから功徳があるなんて言いません。
むしろ、寺を造ったり、僧に供養しても、功徳はないんだそうです。
よくもまぁ、檀家が居なくなりかねないことを言ったもんだ。


色んな人がこの世界を作っている以上、理不尽だらけであることを本当に理解するのは難しい。

正直で真面目で清く正しい人が幸せになれるのかと問われれば、そうかも知れないけど、必ずしもYesじゃない。

正直で真面目で清く正しく、まだ世の中の垢も汚れも知らない小さな子供が、幼くして命を落とすことがあるのをどう説明するか。

正直で真面目に清く正しく、判を押したように生きて来ても、犯罪や事故や災害に巻き込まれて苦しんだり、或いは長らく病気に苦しんだ末に、この世を去る人達をどう説明するのか。

世の中神も仏もいないのか。。と思ったとしても、何も不思議なことはない。


せっせと掃除に励んでいたところに、邪魔しにやって来たとある新興宗教の勧誘者はきっと、苦しい宗教観のこじつけを押し付けようとするんだろう。
彼らは、体も精神も弱っている人の、その部分に付け込むんだろう。

その底にあるのは、人を助けて勧誘に成功すれば、自分に吉事が舞い込むという腐った計算です。
或いは、自分が信じるそれを人にも信じさせることで、自分が間違っていないという安心を得る為のポーズです。

何故なら新興宗教というのは、基本的に欲が絡んでいるから。
欲が無いなら、功徳だの利益だの欲しがらない。
そしてそれを本人も自覚していないのが、とにかく始末が悪い。
本気でそれが人の為だと考えて、口走る。
またそれを、信者の気持ちがいいような言い方をするんだよね。


情けは人の為ならず。

人に掛ける情けは、本当にその人の為ではなく、廻り廻って自分に巡ってくる吉事を望むという意味の言葉です。
人間とはそういうもの、というのを昔の人は戒めたのだと思われます。


何の見返りも求めずに、いいことをただ気分よく、自己完結に終わらせる人でありたいと思った今日なのでした。





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