2014年11月15日土曜日

他人を知る。

物書きさんになりたかったんです。


小説とかエッセイとか詞でも記者さんが書くような記事でも、何でもいいから物書きさんになりたかった。

色々勉強して本も色々たくさん読んだ。
でも私くらいに本を読んで、文章が書ける人なんて世の中ゴマンといて、しかも作家を生業にしている人達は書いてないと死んじゃうくらいに、良い悪いはおいてものすごい量の文章を書いてます。

作家として始まる最初というのはそういうものらしい。
正直言って私にはその量が書けないから、作家にはなり得ない。

だから週末になると(たまに平日も)こうやってブログに書きなぐる。
頭の中が言葉でいっぱいになってくると、ガス抜きしてやらないとキツイ時もあるんですわ。



それに思ったのね。
これは全部私の頭の中にしかないことだけど、色んなことがあって、色んな目に遭って、色んな人に会って色んな思いをして、本やネットなんかから得た情報も加味して少しずつ固まってきたものが、何となく世の中のありのままに近付いてきたような気がして―もちろん実際どうかは分からないけど―、自分の頭の中だけでぐるぐる考えるよりも、一部の少数の人達だけでもいいから、それが誰かの何かの役に立ったり、ちょっとでも気持ちが楽になったり軽くなったりしたらいい、そんなことを思ってます。

その逆に、気分を害すなら読み捨てたらいいだけだから。



多分、私のこの人生のテーマは「本当の他人を知る」ことだと感じています。
「ありのままの他人」という方がしっくりするかな。


良くも悪くも他人を思い知る人生。
多分ね。



子供の頃はある時期、そこそこ長い時間に渡って、今考えても子供って残酷だなと、割と他人事のように思う程度の壮絶ないじめに遭っていました。


私にも悪いところはあっただろうと思う。
でも、そこまでされる筋合いはない。
前にもこの記事に書いたな。
相当エグイことされたよ。
ここには書かないけどね。

それこそ、命を落とさなくて良かったと思うくらいに。
あの頃のいじめの対象は誰でも良かったんだよね。

誰かをいじめることでしか結束出来ない子供達の恐ろしい処世術とでもいうか。
陰で「本当はこんなことしたくないけど、ごめん。」って言われたことが何度かある。



いやいや、いじめのことを書こうと思ったんじゃないんだった。


もう少し成長して、社会に出て、実際に世間を知ることになる。

営業やってた時に、突然塩を投げ付けられたり。

とある年の秋口には、夏場は金魚でも飼ってたであろう小さなプラスチックの水槽が玄関に置いてあって、もうとっくに金魚は死んでしまって水だけが緑色に濁って放置されてた家に飛び込みで入ってしまった日があった。

その家のご主人は酔っていたのかも知れない。
腹の虫の居所が悪かったのかも知れない。

飛び込みで呼び鈴を押して、玄関のドアを開けた私はその緑色に濁って腐った水を頭から浴びていた。



ものすごいセクハラに遭ったことも、ストーカーまがいのことをされたこともあった。



だから何ってこともないんだよ。
もう起こったことはしょうがない。
むしろそんな目に遭おうと思ってもなかなか遭えないでしょ(笑)



スキルを上げていって、外資系で働くところまできた。
今は外資じゃないけど。


結婚して云々。。は前に書いた通りで、前の閉鎖した方のブログに書いたのか。。
いい年して稚拙な暴言、それに度重なる浮気。。私の訳ない。
当時の相手がね。

結婚するずっと前から、結婚相手に自分以外にも付き合ってる人がいるのを知っても、結婚生活って続けていける?
私には出来なかったんだよ。
他人の恋路があんなに気色悪く感じたのは初めてだった。



そして父がこの世を去り。
血の繋がりのある親戚でさえ結構危険なことを知り。



あんなことも経て。。これはそんなに大したことじゃないけど。
それも若干のライフイベントだし。



悪いことばかりの人生だとは思ってない。
得るものがたくさんあったから、一つも無駄なことはなかったし。

ドイツくんだりまで行って、あれだけのことがあって、でも友達も出来て、それで救われたのも確かで。


自分にとっての一番の味方であって理解者であるのは、人間。
でも一番危ないのもまた人間です。


人は勝手に色んなことを考える。
人の数だけ考え方があって、その理屈も屁理屈も様々で、そうやって皆が皆、精神の均衡を保ちながら毎日を過ごしているんです。

だから勝手に考えさせておけばいい。
そんなの一つ一つ止めさせることは出来ないし、人生そんなに長くない。

そうかと思えば、家族や友達や親しい人に救われたり、思い掛けない他人に救われて心が動くことがあったり、捨てたもんじゃないなと思ったり、こうやって気持ちが温かくなったらまだ大丈夫だと思ったり。




世界に目をやると、宗教的な理由や経済的な理由、その他様々に苦しい人の方が多い。
その日暮らしに今日の自分の口を糊するのがやっとで、明日のご飯がどうなるのか分からない人がたくさんいて、「サブヒューマン」、人間以下と言われて人権もへったくれもない扱いをされている人がたくさんいて、宗教的にけしからぬ事をしてしまえば、そこには名誉殺人という大義名分で殺されてしまう人達がいて、殺さざるを得なくなった人達がいる。

警察?当局?


動く訳ない。



昔から、「上見て励め、下見て暮らせ」という。
私はこの言葉が嫌いだ。

上も下もあるもんかと思っていた。
今だって思う。


でも、綺麗事を言っていられない。
そんな現実もあるだろう。
考えたり悩んだり出来る事自体が幸せの証拠だとも言えてしまう。


何が「上」で、何が「下」なのか。
社会的な立場? 富裕層が「上」? 宗教的に上位だから?
有名だったら「上」?
経済大国なら「上」?
金持ってなかったら「下」なのか。
名もない一般人だから「下」?
宗教の中で下位だから?
発展途上国が「下」?


知ってる?
人はその生涯を終える時。。死んで逝く時にはさ。


何も持って逝けないんだよ。
持っていけるのは心だけ。精神だけ。
何も持たずに生まれてきたんだから、死ぬ時だって何も持たずに死んでいくんだよ。




物理的なものは生活出来ればもうそれで充分。
どんな目に遭ったとしても、腐らずに前を向く。
その時に必要なポイントだけを抑えたら、それ以外のことは置いて行く。

悲しかったら悲しんだらいい。
切なかったら切ながればいい。
無理に明るくなろうとしなくていい。
底を打ったら上がってくるしかないんだから。

いつも健気で一生懸命やってる人に、他人は本音も言えない。
いつもいい人で人の悪口も一切言わずに、ニコニコ笑顔で誰にでも判を押したように接している人の前では、他人の気持ちは落ち着かない。


人間なんだから。



自分も。
他人も。





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